数学は社会で役に立つのか
「アーティストは、センス × 努力 だ!」みたいな会話をするとき、これは因数分解という概念の具体化です。一見すると『センス + 努力』 と「足し算」で表現してもいいように思えます。
しかし「どんなに努力してもセンスがゼロではNG」という状況は、足し算ではなく掛け算です。「日々の練習の積み重ねが、実力をつくるのだ」みたいな話の裏側にあるのは積分の概念です。
その瞬間瞬間に練習したことが、何かしらの形で積み上がっていくというのが「時間で積分する」ということです。地球や人類が生まれる前から世界には数学的な規則やパターンがあったわけですから、先立つ概念は数学の方です。
歴史の授業や、国語のことわざを覚えるのを、無駄だと言う人はあまり聞きません。抽象的で応用可能なルールを知っておくと、社会で役に立つからです。
数学もそれと似たところがあります。道具としてベクトルや因数分解を使う職業は、世間ではむしろマイノリティです。しかし数学の勉強を通じて人は頭のなかに「パターン」をストックしていきます。ことわざよりも更に抽象的なので、パターンを学習していることや、そのパターンを使って考えていることすら、おぼろげとしか意識できません。
でも「因数分解」と名前がついていることは認識していなくても、そういった思考パターンの一部は、実は数学を通じて身についているんだと思います。数学に親しみを持って欲しいと願っています。
個別指導塾サクシード塾長
数学のルール(定義)はスポーツのルール
数学のルールには人為的なものがあります。これを定義といいます。定義というものはただ人間がそう決めた、というだけで理屈のないものです。
定義は疑うものではなくて、その定義を無条件で受け入れた時、その先にどんな世界が広がっているか調べること、それが数学という学問なのです。
数学は論理的と言われますが、その原点である定義は、ただ決めただけであって論理的というわけではありません。
この関係はスポーツのルールに似ていると考えています。サッカーは、なぜ手を使ってはいけないのでしょうか?バスケットボールは、なぜボールを持って走ってはいけないのでしょうか?この問いに論理的な答えはありません。
この理不尽なルールを受け入れた結果、ドリブルなどのテクニックやゲームの戦術など、人間にとって興味深い世界が広がるのです。
数学に話を戻すと円周率が直径と円周の比であること、つまり(π=3.14159…)であることも人間が決めただけであって、それに論理的な意味はありません。
別に半径と円周の比にしてしまっても、数学の体系的には何の問題もないのです。
円周率を直径と円周の比で定義してしまったことを、人類の大きな過ちである、と考える数学者の方もいるようです。
どう決めてしまっても問題はないのですが、一度決めたことを覆すことはできないのですね。
個別指導塾サクシード塾長
受験に使える!天声人語
朝日新聞の朝刊の1面に掲載されているコラムです。1世紀以上も続いている歴史あるコラムで、世代を問わず幅広い年代の方から支持を集めています。
日々のニュースや話題を題材に、論説委員が執筆しており、高校入試や大学入試問題の題材としてよく使われることでも有名です。
語彙力が低いと、思慮の浅そうな表現になったり、稚拙な文章になってしまいます。様々な語彙というのは、話し言葉ではなく、書き言葉で使われることが圧倒的に多いため、語彙力をアップさせるためには、多くの文章に触れることが一番の近道と言えるのです。
文章のプロである論説委員が執筆しているので、正しい書き言葉が使われています。辞書を引きながらこれらの新聞コラムを読むことで、それまで知らなかった表現や単語を覚えることができるでしょう。読解力も、多くの質の良い文章を読むことで身につけることができます。しかし、長文を毎日読むとなると、継続が難しくなります。
天声人語は600文字程度の分量なので、1つのコラムを読むのにかかる時間は1~2分です。少ない分量であっても、毎日コツコツ読み続けていけば、読解力は必ず向上するでしょう。その能力は、数学においても、文章題を簡潔に理解する助けとなることでしょう。
天声人語は、多彩な話題を取り上げていますが、文字数に限りがあるため、執筆者には高い要約力が必要になります。要約に必要なあらゆる技術が詰まっていると言っても過言ではありません。
物事の本質を的確に捉え、簡素に伝える力を養うには、まさにピッタリの教材と言えるのです。
「数学は覚える量が少ない科目」
数学の苦手な人に「何で数学が出来るの?」と聞かれて、「数学は覚える量が少なくて楽!」と言いますと、相手の反応が「え!うそ~!!」って感じの驚きようで。
数学が国理社英に比べて覚える量の少ない科目に感じてしまいます。他の人は「覚える量の多い科目」と認識しているようです。
数学の問題を考えて解くものだと考える人と、使うべき公式を当てはめて解くものだと考える人の違いでしょう。
文系は、数学や物理の問題をみて「これに使う公式はなんですか」といいます。問題文から、使うべき公式を数ある中から当てはめ、どの数字をどこに代入して計算するのかも当てはめ、解くのだと思っているようです。問題のバリエーションの数だけ丸暗記しなければなりませんから、暗記科目でしょう。
点数を取らせたい塾の講師や,どう教えていいかわからないバイトの家庭教師、ひどいときには,学校の先生まで,「とりあえずこれは公式だから覚えなさい」それだけ言って,ひたすら問題を解かせて,出来た気にさせます。
「数学は論理的・思考力を身につけるための科目!!」とか言っておきながら,結局丸暗記しているだけという状況。その瞬間は対応できても,すぐに忘れるし,応用もできません。一応,その瞬間は公式を使うだけで解けるので,出来た気にはなります。
小学生の流水算「足して2で割ると、静水時の船の速さ」 「引いて2で割ると、川の流れの速さ」。割合を円を書いて「く・も・わ」(くらべる量、もとにする量、割合)。速さを円で「み・は・じ」(道のり、速さ、時間)。二次方程式・「解の第一公式」、xの係数が偶数の時、便利な「解の第二公式」。
一度、自分で公式を導いてみましょう。その後、暗記したら理解が深まると思います。
個別指導塾サクシード塾長
コロナ感染症 …… “安心”ではなく“安全”に目を向けるべき……
日本では“安全”と“安心”という二つの言葉をセットにして使うことが多いが、外国では“安全”は使っても“安心”はあまり使わない。“安全”が根拠に基づくものであるのに対して、“安心”は気分的な問題。
外国人は根拠やデータを重視するが、日本人は気分の良さという要素を求めるため、“安心”が付随してくる。情緒を貴ぶ日本人の国民性が裏目に出てしまった。
少なくともウイルスに情緒は通じない。理論的、合理的に対応していくべきなのだ。安全と安心はどう違う?最近とくに「安心・安全な社会づくり・・・」とか「安全・安心な商品提供・・・」とか、安全という言葉と安心という言葉をワンセットで重ねて使う様子を目にしたり、耳にしたりする。しかし、実際は、安全と安心は同じではない。あたかも同じ意味をもつものとして強意の意図をもって並べて使っているとすれば、違和感を覚える人もいるのである。
安全と安心ということばの意味の違いをどのように区別すればよいか?例えば、渓谷を眼下にしてバンジー・ジャンプを跳ぶかどうかに迷う様子を思い浮かべるとわかりやすい。足に括られたスプリング付きのロープは人間一人を支えるには十分な強度がある、だが、いかに強度的に安全といわれても感覚として不安がつのる。科学的な安全保証に対する主観的な信頼感覚の、その両者の葛藤がバンジー・ジャンパーの決断に逡巡をうむことになる。
安全は、危険の程度が許容の範囲内にあると客観的に保証される状態であるのに対し、安心は、安全の程度を基にした個々の人間の主観に基づく信頼感覚であると説明できる。少なくとも、いまはまだコロナ蔓延に安心を求める局面でないことは確かだ。
日本人はコロナに対して強いというファクターXは、まさに“安心”を醸成するワード。そこに漂う心地よさではなく、いまこそ日本人も、“安全”に目を向けるべきなのだ。